遺跡の発見

遺跡の発見

世界中から沢山の観光客が訪れる観光地のひとつ、マチュピチュの インカの要塞は、米国人探検家ハイラム・ビンガムが発見したので はなく、ペルー人農場主が発見した。 クスコ【ペルー南西部】の農場主アグスティン・リサラガは、ビン ガムより9年早い1902年7月14日、クスコの南の県の密林地帯を訪れた際、「インカの失われた都市」を発見した、とリマの日刊紙が明らかにした。

その新聞は、リサラガが同じくクスコ出身のガビノ・サンチェスやエンリケ・パルマと共に1902年にその地帯を訪れたことを明らかにするため、資料や歴史家たちの証言を確かめた。 雲と草木に覆われた山にあることから「雲の都市」とも呼ばれるマチュピチュの発見者は、インディー・ジョーンズのような外見で、すらりとした白人のハイラム・ビンガムだと考えられていた。

1911年7月24日、国立地理学会とエール大学が出資した調査旅行で、ビンガムは、ひとりの農村の子供とペルー人治安警察隊員と共にその地域を訪れた。

1913年、有名な科学雑誌がその発見【現:マチュピチュ】の特集号を発表し、米国人探検家の評判は広がった。 その発見に関する公の歴史書はかなり知られているが、クスコの知識人はかなり知られているが、クスコの知識人の 間では別の人、つまり農場主アグスティン・リサラガがマチュピチュ遺跡の発見者であると認識されている、と日刊紙は指摘した。 その情報は元クスコ市長ホセ・ガブリエル・コッシオ(1887-1960)の証言に基づいている。

彼は、ビンガムの少し後、リサラガが進んだルートでマチュピチュを訪れた最初のペルー人の一人だった。ペルー人歴史学者マリアナ・モウルド・デ・ペアセは、ビンガム自身、そのクスコの農場主がインカの要塞を訪れた最初の人間であったことを認めていたと主張した。 モウルドは、その証言がビンガムの3番目の息子アルフレッドM・ビンガムが書いたビンガム伝『ある探検家の肖像:マチュピチュ発見者ハイラム・ビンガム』に書いてあると指摘する。

それによると、アルフレッドM・ビンガムは父親の手帳に、「アグスティン・リサラガがマチュピチュの発見者であり、サンミゲル村に住んでいる」というメモを見つけたということである。

更に、その要塞の3つの窓(las Tres Ventanas)の寺院の壁に「1902年7月14日、リサラガ」と炭で書かれていたと指摘した。

モウルドは、リサラガが最初の旅行の何年も後、1902年の探検と同じコースでマチュピチュに戻ろうとしたと付け加えた。 それは雨期だった。
リサラガがマチュピチュの頂上まで登ろうとウルンバ川を渡ろうとした時、濁水が彼を押し流し、その後二度と彼の姿を見ることは出来なかった。

アルフレッドM・ビンガムは、父ビンガムの本『インカの失われた都市』の中でリサルガに対する記述がすべて削除されていると指摘した。父よりも前にそこを訪れた人間がいたという証拠は他にもある。それは父親が撮った写真で、それを見れば、要塞の大部分が父親が言ったような"何世紀もの草木"に覆われてはいなかったことがわかると付け加えた。